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東京高等裁判所 昭和62年(行コ)74号 判決

控訴人

右代表者法務大臣

林田悠紀夫

右指定代理人

山口晴夫

中島和美

座本喜一

橘田博

被控訴人程文雄こと

山野文雄

右訴訟代理人弁護士

堀裕一

安田修

長尾節之

荒竹純一

松田隆次

野末寿一

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人らは「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人らは主文同旨の判決を求めた。

二  当事者双方の主張は、次のとおり補正するほかは、原判決事実摘示第二と同一であるからこれを引用する。

1  原判決三丁表五行目の次に行をかえて次の部分を加える。

「仮に本件宴席が菊英の関係者のみの出席であるとしても、民国民法上は「儀式の公開」(第三者が現認できる状態での挙式)が要求されているにすぎず、更にそれ以上に親族の同意、出席等は必要とされないのであるから、「儀式の公開」という要件は充足されている。

そして、右方式により婚姻が適法になされる限り、その婚姻意思は推認されなければならず、茂も菊英も婚姻の当時社会観念上夫婦であると認められる関係を設定する婚姻意思を有していたものである。」

2  同三丁裏一〇行目の「日本人である」の次に「(大阪高等裁判所昭和六二年二月六日決定(判例タイムズ六三〇号二六六頁)参照。)」を加える。

3  同一一行目を削除して次のように改める。

「6 被控訴人は、中国において日本人の子として迫害され、言うに言われぬ苦しい生活を続けてきたものであるところ、日本に永住したいとの気持ちを果たすべく、昭和五八年三月上海での中学教師の職を辞めて同年四月二日単身来日し、現在では日本国内で家族とともに生活しているが、外国人として扱われ、外国人登録をなし、在留期限におびえながら不安な日々を暮している。」

4  同四丁表九行目の次に行をかえて次の部分を加える。

「仮に茂と菊英が婚姻の儀式を行ったとしても、秘密裡に行われたものであり、出席者の大部分は菊英に関係する中国人であって、このような儀式はおよそ公開とはいえず、「儀式の公開」という要件が満たされているとは認められない。

婚姻意思とは、社会観念上、夫婦共同生活体を成立させる意思であるところ、民法は、婚姻の無効について、現行民法、旧民法とも同旨の定めをし、旧民法七七八条一号は、「人違其他ノ事由ニ因リ当事者間ニ婚姻ヲ為ス意思ナキトキ」は婚姻は無効であると規定する。そして、右にいう「当事者間に婚姻する意思がないとき」とは、当事者間に、真に社会観念上夫婦であると認められる関係の設定を欲する効果意思を有しない場合を指すものと解すべきである(最高裁判所昭和四四年一〇月三一日第二小法廷判決、民集二三巻一〇号一八九四頁)。

しかるに、本件については、当事者である茂及び菊英のいずれの側にも、夫婦共同生活体を成立させる意思がなく、両者は、いわゆる愛人関係であったと認めるのが相当である。」

5  同末尾一一行目の次に行をかえて次の部分を加える。

「同条にいう「父」とは、法律上(親族法上)の父を意味するものであって、自然的血縁関係があるだけの事実上の父を含むものでないことは裁判例及び学説においても異論のないところである。

被控訴人が茂から撫育を受けたことにより事実上認知されて日本国籍を有するとの主張は、認知の成立要件の準拠法を定めた法例一八条一項(父子それぞれの本国法により認知の要件の具備が必要)によれば、父である茂の本国法である日本旧民法が撫育認知を許容していないから、結局、認知の要件を満たしておらず失当である(被控訴人の引用する大阪高裁決定は、事案を異にする上、旧国籍法一条の「父」の概念を不当に拡大するものである。)。」

6  同四丁裏一行目を削除して次のように改める。

「6 同6は、被控訴人が昭和五八年四月二日に来日したこと及び外国人として扱われ外国人登録をしていることは認めるが、その余は不知。」

三  証拠関係〈省略〉

理由

一被控訴人の親子関係については、〈証拠〉によれば、被控訴人は昭和一七年二月二五日、中華民国上海市において茂と菊英との間に子として出生したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

二そこで、被控訴人の右親子関係を前提として、被控訴人の日本国籍取得の有無について判断する。

1  被控訴人は、旧国籍法一条にいう「父」は自然的血縁関係のある事実上の父で足り、右山野茂が日本国籍を有するから、被控訴人は出生により日本国籍を取得した、と主張する。

しかしながら、同条にいう「父」とは、日本の法律により出生子と父子関係が存在する者を指し(法例一七条)、自然的血縁関係があるだけの事実上の父は含まないものと解するのが相当であるから、被控訴人の右主張は理由がない。

2  被控訴人は、茂と菊英は昭和一五年一二月ころ当時中華民国上海市において婚姻した夫婦であるから、被控訴人は茂の嫡出子として法律上の親子関係を有し、出生と同時に日本国籍を取得した、と主張するので検討する。

(一)  まず被控訴人の主張する茂と菊英との婚姻が日本の法律上有効に成立したかどうかについて考える。

被控訴人が右婚姻の成立を主張する当時茂が日本人であり、菊英が中華民国人であることは当事者間に争いがないところ、日本人と外国人との婚姻の準拠法については、法例一三条一項によれば、婚姻成立の実質的要件は各当事者の本国法に、その形式要件は婚姻挙行地法とされているので、右婚姻の有効性については、実質的要件は茂については日本法、菊英については中華民国法により、形式的要件は、後記認定のとおり婚姻挙行地が当時中華民国上海市であるので中華民国法によりそれぞれ判断されることとなる。

(二)  まず婚姻成立の形式的要件の具備について検討すると、民国民法九八二条によれば、婚姻が中華民国法の方式上有効に成立したといえるためには、「公開の儀式」及び「二人以上の証人」の存在が必要とされているところ、〈証拠〉を総合すると、本件宴席の状況等について次の事実が認められ、この認定に反する甲第二号証(一部)は、右各証拠に照らして採用できず、他に右認定を左右する証拠はない。

(1) 昭和一五年一二月ころ、上海市の料理店「紅棉酒家」二階において、本件宴席が設けられた。「紅棉酒家」は当時上海市大世界という繁華街にあり、日本人も利用する有名な料理店であった。

(2) 本件宴席の会場にあてられた広間には、中央に丸テーブルが約一〇卓、壁ぞいに四角のテーブルが約一〇卓あり、本件宴席はそのうち中央の丸テーブル二卓を利用して行われた。

右二卓のテーブルの上には、それぞれ結婚式を表す「喜」の文字を記した札のさしてある、赤リボンのついた大きな花籠が置いてあった。

(3) 出席者は、茂と菊英のほか、菊英の母、菊英の親族、茂及び菊英の知人等であり、日本人数名も含めて約二〇名であったが、茂の親族や勤務先の者は出席していなかった。

婚姻の儀式に一般に用いられる特定の服装のきまりはなかったので、新郎の服装は背広で、新婦は赤い中国服であり、新郎・新婦はともに胸に赤い花をつけており、出席者全員が非常に奇麗で立派な衣服を着用していた。

(4) 本件宴席においては、菊英の母が主婚人、茂の知人である顔子瑾及び林挙伯の両名が証婚人となり(右両名は妻帯者で成年者である。)、右両名が本件宴席の司会を行った。そして、右両名が出席者に茂と菊英を紹介し、「今日はこの人達の結婚式のために集まっていただきありがとうございます。」と述べて、新郎・新婦の結婚に至る経過を披露した。

その後、出席者の面前で、「結婚証」に、主婚人である菊英の母、証婚人である右顔及び林の両名、当事者である茂及び菊英がそれぞれ押印した。

さらに、全員が起立して乾杯をし、「結婚を祝福します。」と述べ、茂と菊英は、二人で、結婚式の際の習慣に従って起立した全員に酒を注いでまわった。

(5) それから、食事が開始されてにぎやかな酒宴となったが、約二時間経過したころ、証婚人の両名が「どうぞ彼らの家へ遊びに行ってあげて下さい。」と述べて宴を終了した。

(6) 本件宴席の当時、宴席の設けられた二卓のテーブル以外には他の客がいてその食事中本件宴席の様子を容易に見ることができた。

以上の事実によれば、本件宴席は当事者の婚姻の意思並びに婚姻の事実を確認するとともに公表し、これを祝福するために設けられたものであって、これが婚姻の「儀式」に該当することは明らかである。

そして、民国民法九八二条の「公開」とは、不特定の者が婚儀をともに目にすることができる状態をいうものと解されるところ、本件宴席は、前記認定のとおり、「喜」と記された札をさしてある大きな花籠(前記(2))、参列者の華美な服装(同(3))、新郎と新婦とが二人で出席者に酒を注いでまわったこと(同(4))等に照らし、一見して当時の中国の習俗にしたがった結婚式としての特徴を備えているうえ、前記(6)において認定したとおり、不特定の者がその進行状況を容易に認識することができる状態で開催されたのであるから、「公開の儀式」であるということができるものである。

ところが、本件宴席に茂の親族や職場の者が出席していなかったことは前記(3)認定のとおりであるが、この点につき、控訴人は、出席者の大部分は菊英に関係する中国人であって、このような儀式はおよそ公開とはいえず同条の要件を満たしていない、と主張する。

しかしながら、茂が同人の親族や勤務先に自己の婚姻を秘匿したのは後記認定の事情によるものであると推測されるところ、同人が自己の関係者の一部に自己の婚姻を秘匿した事実があったとしても、本件宴席が前記のように不特定の者に周知可能な状況の下に設営されていることからすれば、婚姻挙行地の法律上の方式は満たしているというのに妨げないものというべきである。

さらに、本件宴席は、成人で能力を有する証婚人二名が証人としての役割を果たしたことは前記認定事実により明らかであるから、「二人以上の証人」という同条のいま一つの要件も満たしているものである。

したがって、茂と菊英との婚姻は、婚姻挙行地である中華民国法の方式上有効に成立したものということができる。

(三)  次に婚姻成立の実質的要件の具備について検討すると、婚姻意思の存否を除くその余の、各当事者の本国法上の実質的成立要件の具備については、控訴人は明らかに争わないので自白したものとみなすべきところ、控訴人は、茂及び菊英のいずれの側にも夫婦共同生活体を成立させる意思がなく、両名はいわゆる愛人関係であった、と主張するので判断する。

ところで、茂と菊英との婚姻が中華民国法の方式上有効に成立したものと認められることは、前記(二)のとおりであるが、一般的にその手続を履践して適法な婚姻がなされた以上は、その婚姻の当時に婚姻意思が存在したものと推認するのが相当である。

もっとも、適法に成立した婚姻であっても、有効な婚姻を仮装するなどそれが単に他の目的を達するための便法とされているような場合には、真に夫婦関係を設定する効果意思を欠きその効力を生じないというべきであるから、本件において、当事者にそのような意図があったかどうかを検討する。

ところで〈証拠〉を総合すると、茂と菊英との婚姻の前後の事情について次の事実が認められ、右認定に反する前掲乙第六号証(一部)、原本の存在及び成立に争いのない乙第七号証(一部)は採用できないし、他に右認定を左右する証拠はない。

(1) 茂は、江商株式会社の社員であり、中支綿花協会(日本軍の指令により日本軍の綿を調達するために結成された組織)に出向して、昭和一五年ころ上海市から南京市に移り居住していた。

菊英は、母とともに故郷の上海を離れて、同年春から南京市内の社交ダンスホール「東方」にダンサーとして稼働していたところ、同年夏ころ茂が同ホールの客として訪れたことから両名は知り合うようになり個人的に交際するようになった。

(2) 茂は、同年秋ころ、菊英の母を通じて当時一六歳であった菊英に対し結婚したい旨の申込みをした。茂は優しい性格の男であり、菊英には兄弟がなく母子の生活も困窮していたので、菊英と母は茂の右申込みを承諾した。そして、茂から、仕事を辞めて母親と一緒に上海にもどるように言われたため、菊英と母は郷里の上海市にもどり、茂自身も協会から江商に復帰し上海市に帰ったきた。

結婚までは、茂は会社の寄宿舎である青葉寮に、菊英は上海市内にアパートを借りて居住していた。

(3) 茂と菊英は、昭和一五年一二月上海の「紅棉酒家」において挙式した後は、その挙式の日から、上海市淡水路祥茂新屯五号の林宅の三階で菊英の母と三名で同居生活を始めた(もっとも、茂は青葉寮は引き払わずにいた。)。

茂は、仕事の関係で出張が多く不在がちであったが、夫婦仲は円満で、昭和一七年二月二五日には長男の文雄が生まれた。茂は、文雄を抱いてあやしたり一緒に遊んだりして大変かわいがっており、菊英に対しても、当時は珍しかった洋服を買い与えるなど優しい心づかいを示した。文雄が生後一〇か月のころ、菊英は懐胎していた第二児を流産したが、このときも茂は菊英の身体を気づかい菊英を日本人の経営する福民病院にタクシーで連れて行ったりした。

(4) 文雄が生まれて手狭になったため、昭和一八年一月に家族四人は、上海市派克路派克己新村四号の三階建住居に転居した。

茂と菊英は、休日などには、租界内にある映画館に映画を見に行ったり、デパートで買い物をしたり、公園を散歩したりし、茂の好きな競馬場にも数回行ったりした。茂は外出時に知人と会っても特に菊英のことを隠そうとするようなそぶりは示さなかった。

以上の事実関係のもとでは、茂は菊英を自己の配偶者とする意思で婚姻の申込みをし、菊英もこれを承諾したものであって、当事者間では当初から真に夫婦共同生活を営むことが企図されていたことが明らかである。

なるほど、〈証拠〉によれば、茂は、菊英との婚姻に当たり自己の親族になんら相談せず、また、自己の勤務先である江商株式会社にも報告することなく、婚姻の事実を秘匿していたこと、同人の職場の同僚のうち後になってその事実をうちあけられたのはごく親しい友人に限られていたこと、上海の日本領事に対しても菊英との婚姻の戸籍上の届出をしていないことが認められ、右認定を左右する証拠はない。しかしながら、〈証拠〉によれば、茂が婚姻した当時は動乱期であり、日本と中国とが戦争状態にあったこと、日本人は上海市においてはいわば特別の階級を構成していたこと、当時の状況では、中国人女性と婚姻することは親族から反対されてとうてい同意が得られそうもなかったこと、日本軍のための綿の収集に従事していた茂にとって、中国人と個人的に親密になることは、綿の収集という職権を濫用し会社を個人的に利用しているのではないかという勤務先の上司の憶測を生みかねず、仕事上不利益となるおそれのあったこと、また、綿の収集は軍関係の仕事であり、敵国の女性と婚姻することは非国民としての扱いを受け会社自体が軍の嫌疑を受けかねないおそれもあったことが認められ、右認定を左右する証拠はないところ、このような事情のもとでは、茂が菊英との婚姻を勤務先の上司や同僚に対しては公表しないで秘匿すること(上海の日本領事に婚姻の届出をしていないのもこのような事情が考えられ、法的事情を考慮したものかは確認できない。)もまたその意味でやむを得なかったといわざるをえず、他の日本人の同様の婚姻についても同じ状況にあったことがうかがわれるのであって前記事実をもって茂と菊英との関係が控訴人主張のような公表された婚姻の実体を伴わない全く個人的関係に過ぎないことが周囲からも明らかであったと認めることはできないものである。

また、〈証拠〉によれば、茂は、菊英と婚姻していながら、これを解消しないまま、帰国して日本人志波和(志波安一郎・チトセの六女、大正七年一一月三〇日生。以下「和」という。「和枝」は四女、大正三年三月一三日生で「和」の誤りと認められる。)と見合いをし、菊英と婚姻した一年八か月後の昭和一七年九月一日同人と婚姻し、いわゆる重婚状態となったことが認められ、右認定を左右する証拠はない。しかしながら、仮に前婚の後比較的短期間の時期に重婚となった場合であっても、後婚の婚姻意思の存在が当然に前婚の婚姻意思の不存在を推認させるものではないし、〈証拠〉によれば、茂と和との結婚の話は菊英との前婚後に茂の親族からもちだされ、このため茂が苦悩していたことが認められるのであるから、茂が前婚に当たり後の重婚状態の作出を予想し、前婚はこれを愛人関係として婚姻を偽装する意図があったということもできない。

なお、〈証拠〉を総合すると、茂は、和と婚姻した後は、和を上海市に呼び寄せて所帯を構え、菊英の家庭と和の家庭との間を交互に往来して双方の配偶者と同居しつつ二重の婚姻生活を継続してきたこと、茂は江商の駐在員として経済的にも裕福で二つの家庭の家計を維持することは可能であり、和との婚姻後も、もともと夫の不在がちであった菊英との婚姻生活に特段の変化は認められなかったこと、菊英の住居は上海市の英国租界内の派克路にあり、和の住居は同市虹口の呉淞路にあり、二つの住居は蘇州川をはさんで租界の内と外とで生活圏を異にしていたので特に双方の家庭が交渉することもなく、いずれも山野家として地域住民に認められていたこと、茂は、いずれの配偶者にも他方の配偶者のことは秘密にし婚姻の事実を秘匿していたが、やがてその事情が各の配偶者の知るところとなったことが認められ、右認定を左右する証拠はなく、このような重婚状態にある茂の二重生活の不自然さと前記認定の、当時の上海における日本人の現地中国人に対する優越的な立場とが、右のような二重の婚姻生活の実態にもかかわらず、右のことを知り得た茂の周辺の日本人関係者に、日本人を妻とし、日本法に基づき正式の婚姻届出がなされた和が正式の配偶者であって、菊英が正式の配偶者ではなく、あたかも愛人であるかのような憶測を生んでいたことが推認される。

そして、〈証拠〉によれば、茂は昭和二〇年五月二四日上海市で肺結核のため死亡したが、茂の葬儀は少数の日本人の間で行われ、妻である菊英が参列していないことが認められ、右認定を左右する証拠はないが、このことも右のような事情によるものと考えられるのであって、右事実によっても茂と菊英とが婚姻の当時婚姻意思を有していた事実を直ちに左右するものではない。

そうすると、本件婚姻の宴席のあった当時において、茂と菊英との婚姻についてその実質的成立要件である婚姻意思が存在し一旦有効な婚姻として成立したものと認められる以上、たとえ事後に後婚の際これを正式のものとする主観的意思を生じ、外観的にもそのように見られる状況があったとしても、これによって直ちに先に有効に成立した前婚が単なる愛人関係に変わるものではないといわねばならず、他に右認定を覆すに足りる明確な証拠は存在しない。

(四) 以上のとおり、茂と菊英とは昭和一五年一二月ころ婚姻した夫婦というべきであり、前記一において認定したように、被控訴人は昭和一七年二月二五日中華民国上海市において右両名の間に子として出生したのであるから、被控訴人は茂の嫡出子であるというべきである(法例一七条、旧民法八二〇条)。

3  したがって、その余の点について判断するまでもなく、被控訴人は、日本人の嫡出子であるから、旧国籍法一条によって出生と同時に日本国籍を取得したものというべきである。

三以上の次第で、被控訴人の請求は理由があるから認容すべきところ、同旨の原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官渡邉卓哉 裁判官大内俊身 裁判官土屋文昭)

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